高山右近 荒木村重の関係は!?意外と知られていない2人の意外な秘密とは!

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高山右近は、キリシタン大名の

先駆けのような人で、

通称は彦五郎と呼ばれており、

有名な「右近」の呼び名は私的な名で、

正式な官位としては大蔵少輔までなっています。


高山右近 荒木村重の関係

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高山右近の父、友照が当主のころには、

当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、

三好氏の重臣である松永久秀にしたがって、

大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城としていました。

そんな時、右近は天文21年(152年)に友照の嫡男として生まれた。

後に、キリシタンとして有名となる右近ですが、

永禄7年(1564年)に12歳でキリスト教の洗礼を受けています。

しかし、三好氏の当主長慶が永禄7年に没すると

内紛などから急速に衰退し、

摂津は大きく混乱して行きました。

幾つかの内乱後、

高山親子は、和田惟長に命を狙われるように成ります。

その時、

ピンチを救ったのが荒木村重です。

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高山家に、

「惟長は好機があり次第、高山親子を殺すことに決めた」という知らせが届き、

友照はこの事を村重に相談すると村重は

「もしそうであるなら殺される前に殺すべきだ。自分は兵をもって援助する」と言い、

惟長の所領から2万石を与えるという書状を与えました。

結局、この戦いで、

右近は首を半分ほども切断するという大怪我を負ってしまうも、

奇跡的に助かり、

荒木村重の加勢により、

勝利を収めました。

余談ですが、

敗れて、家族や家臣たちと逃げた惟長は、

輿に乗せられて和田家の生国甲賀へ行きましたが、

同地で死亡したと言われています。

この事件の後、高山父子は村重の支配下に入りました。

村重は既に信長から摂津一円の支配権を得ていたため、

この事件は問題にされることもなく、

高山父子は晴れて高槻城主となることができたのです。

2人は、高槻城の修築工事を行い、

石垣や塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式を取り入れたそうです。

その後、荒木村重が主君織田信長に反旗を起こします。

信長はかなり激怒したと言われています。

村重の謀反を知った右近はこれを翻意させようと考え、

妹や息子を有岡城に人質に出して誠意を示しながら謀反を阻止しようとしたが失敗。

右近は村重と信長の間にあって悩み、

尊敬していたイエズス会員・オルガンティノ神父に助言を求めたそうです。

その時に神父は

「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよと」

と言ったそうです。

結局、右近は信長を選び、

大名へと登ります。

信長は、信じていた村重に裏切られたばかりだった為、

かなりの脅し?・・

を掛けたとは言え、

自分に従う事を決めた右近の行為が大変に嬉しかったようで、

キリシタンの更なる普及と

石高も、加増したと言われています。

高山右近には、

あの黒田官兵衛

影響を受けたそうです。

秀吉の時代には前田家に仕え、利家の嫡男、利長に信頼されいましたが

やがて海外へ移住し、その波乱万丈な生涯を終えました。

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