前田利家の妻まつとは!?盟友、豊臣秀吉と徳川家康との関係は!!

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加賀百万石の祖、前田利家。

武勇優れた武将で、信長にも頼りにされ、

晩年は、天下人豊臣秀吉の右腕として最も頼りにされた大名ですが、

彼の出世の秘密は、妻である「まつ」に有ると言われています。

勿論、前田利家の能力の高さは当然の事ですが、

妻のまつは大河ドラマでも知られるように優れた良妻だったようです。

今日は、そんな前田利家の妻、「まつ」と、

臣にして友という特殊な関係にあった豊臣秀吉、

そして、最後のライバル徳川家康との関係についてです。

前田利家の妻まつとは!?盟友、豊臣秀吉と徳川家康

前田利家の妻まつ

まつが利家と結婚したのは、前田利家22歳、まつ12歳の時です。

今の時代では考えられませんが当時は、普通の事でした。

まつは小さい頃に親を亡くし、前田家に引き取られてきましたが、

二人は、従妹同士でした。

なので、最初の頃は「兄様」と呼んでいたそうです。

まつはその後、9男9女を産みますが、

その中には秀吉の養女や側室に成ったものもいたそうです。

まつのエピソードは数多く有りますが幾つかあげると、

①秀吉の臣下に入った利家は、敵対する佐々成政と対峙していました

その時、兵の数で圧倒する佐々軍を前にグズグズしている夫に対し、

金袋を投げつけ、こう言い放ったそうです。

「ですから、金銭を惜しまず家臣を雇えと言うておりました。この金銀を引き連れて槍をつかせばよろしい」

前田利家は、浪人した際、お金に大変苦労したためケチでした。

その為、兵士に十分な給金を与えておらず、兵の士気が下がっていたのです。

まつは利家に、大切なものはお金では無く、

命を懸けて忠義を尽くしてくれる「家臣」であることを

お手討ち覚悟で伝えたと言われています。

その後、利家は家臣を大事に扱い給金も十分に与えたそうです。

②前田利家他界後、家康は待っていたとばかりに前田家の滅亡をはかり、

前田家に謀反の疑いをかけてきます。

この時嫡男、前田利長は家康との徹底抗戦を考えますが、

母、まつは利家亡き後の政権トップは誰なのかを冷静に考えています。

つまり、嫡男、利長が家康と対抗したところで勝ち目は無く、

前田家は滅ぼされることを、知っていたのでしょう。

血気に流行る、利長をたしなめ自ら徳川の人質と成る道を選びました。

まつは、夫である利家なら家康に十分、対抗できると思っていても、

利家亡き後、家康に対抗できる武将など、

皆無であることを十分に、知っていたのだと思います。

結局、自らが徳川の人質と成る事で、

加賀百万石、いや関ヶ原の後加増されたので、

加賀百二十万五石は、明治の代まで続きました。

まつの時代を読む目には本当に驚かされます。

また、まつは、改易された利政の身の上を案じたり、

利政の子供を取り立てるように、三代藩主、前田利常に依頼したりと、

女性らしい優しさを持っていたおうです。

最後に、前田利家の臨終の時のまつとの会話です。

まつが、紙帷子を差し出し

「お前さまは、たくさんの殺生をしました。後生が恐いので、これを着てお逝きなさいませ」というと、

「ひとかどの理由のない殺生はした覚えがない。閻魔大王がどうこう言ったら、先に立った者たちを率いて、牛頭馬頭を従え一戦為すのみ」

と答えたそうです。

前田利家。

さすが、武勇で名を残した武将だと思います。

前田利家と豊臣秀吉

前田利家と豊臣秀吉の関係は、

多くのドラマやブログ等でも語られているので、

ここでは簡単に話しますが、

早い話が、マブ達です^^;

織田信長に仕えたころからの盟友で、

利家は、信長の影響をかなり受けていた人なので

農民上がりの秀吉に対しても、身分等を全く気にしない人のようでした。

秀吉は、そんな利家を大事な友として尊敬していたそうです。

秀吉がおねと結婚した後でも、利家夫妻と家族同様の親交が有り、

この時代には珍しいほどの「絆」で結ばれていたようです。

実は、

こんなエピソードが有ります。

利家は、織田信長のお気に入りの茶坊主を、

堪忍袋の緒が切れ、主君、織田信長の目の前で切り殺し、

信長に織田家追放の命を受けます。

それまで、その武勇から信長の側近として周りからちやほやされていた利家でしたが、

この一軒後、

皆、利家に関わろうとするものはいませんでした。

そんな時、親身に支えたのがのちの天下人、豊臣秀吉だったのです。

その後、利家は信長から許され織田家の一員と成りますが、

この時、親身に成り支えてくれた秀吉にとても感謝したそうです。

それが後の、賤ヶ岳の合戦での戦線離脱と言う形で、

秀吉への恩を貫くことと成ったのだと思います。

豊臣秀吉の晩年は、弟秀長に先立たれ頼れる人は、

盟友、前田利家しかいなかったと思います。

秀吉は、徳川家康を警戒しており、

対抗できる武将は前田利家しかいないと思っていたのは、

紛れもない事実でしょうし、徳川家康にとっても、

「前田利家」の存在は、目の上のたんこぶ以外の何物でも無かったのでしょう。

前田利家と徳川家康

太閤秀吉の亡き後、

豊臣政権は、内大臣徳川家康と大納言前田利家が、大きな発言力を持つように成りました。

豊臣秀吉は生前、五大老、五奉行制度を設け、

嫡男、豊臣秀頼の補佐をするよう言い渡し、この世を去りました。

しかし、実験を握るのは内大臣徳川家康と大納言前田利家でした。

家康は、秀吉亡き後遺言を破り大名と婚姻関係を勝手に結び、

勢力拡大を図ります。

これに異を唱え、弾圧したのが大納言、前田利家でした。

両者は大阪と伏見とに分かれにらみ合いを続けましたが、

利家は、秀頼の守り役で大阪城の事実上主、

家康は、官位や領土は利家よりも上ですが、

人望のある利家には逆らえず、

謝罪し、向島に撤去します。

家康はさすがは後の天下人、バカでは有りません。

家康は低調に利家に謝罪し、非を認めたそうです。

もし、家康が戦を起こせば、

たとえ利家が病気がちだったとはいえ、勝ち目は無かったと思います。

理由は、大くのブログで書かれているので割引ますが、

後の、関ヶ原とは大きく違った事でしょう。

前田利家は、武闘派のドン的な存在で且つ文治派からも尊敬されていたわけですから、

家康が、いかに戦上手でも、

利家には、勝てなかったと思います。

それは、家康自身が十分、解っていたことなのだと思います。

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