本能寺の変は、誰でも知ってる出来事ですが、
今でも多くの謎に包まれています。
通説では、本能寺の変は明智光秀が、
織田信長に恨みを持ち、謀反に及んだ事に成っていますが、
実は、それだけではないようです。
勿論、恨んでたのは事実ですが、
明智光秀と言う人は、文武両道に優れ
家臣の信頼も厚く、軽はずみに主君を討ったりする人では有りません。
では、明智光秀が織田信長を討った最大の理由とは?
そして、その黒幕とは?
ここで、初代江戸幕府将軍の
徳川家康が浮上します。
★織田信長と徳川家康
織田信長と徳川家康は、
桶狭間の合戦後、同盟を結び(清州同盟)
それ以降は共に、信長の掲げる
「天下布武」
にまい進してきました。
ちなみに、
天下布武とは、武力を持って天下を統一すると言う意味です。
甲斐の大大名「武田信玄」の死後、
織田、徳川連合軍は
急速に衰えてきた武田氏を滅ぼすべく
猛攻撃をしかけ、ほぼ滅亡寸前まで追い込みます。
そんな中、家康のもとへ信長から文が届きます。
それを読んだ家康は、大変驚きました。
そこにはなんと、
妻の築山御前と長男信康が武田に内通しているので
殺せと書かれていたのです。
当時の信長はかなり力を付け、
戦上手の家康が邪魔に成ったからではないかと言われています。
家康の家臣は、
「信長と一戦交えるべし」
と主張したそうですが、
家康は、妻と長男を切腹させたそうです。
「力が無ければ、妻子も守れぬ」
家康はこう言ったそうですが、
家康の苦悩がうかがえます。
★本能寺の変と徳川家康
冒頭でも述べた通り史実では、
本能寺の変とは明智光秀が主君織田信長への個人的な恨みから
事に及んだかのように言われていますが、
最近、新たな仮説が登場したのをご存じですか?
明智憲三郎さんは、明智光秀の子孫だそうです。
この書によれば、
本能寺の変とは、
織田信長が徳川家康を暗殺する為のものだったそうです。
この時、信長はすでに天下統一があと少しと言うところまできていました。
正に、逆らえる大名はほとんどいない状態でした。
そんな中、もっとも警戒すべき相手は
同盟相手で有る徳川家康です。
家康の軍略や人望は、
後々、災いになると考えた信長は、
明智光秀に命令し、
本能寺にて討ち果たすよう命令します。
そして家康を油断させる為、
わずかな手勢を引き連れ信長は本能寺へ入ります。
文武両道に秀でた光秀は、
これまで信長の理不尽な命令にも従い
天下統一に協力してくれた 家康を、
だまし討ちにする事など出来る事では有りません。
その後、信長から決定的言葉を聞かされます。
それが「大陸進出」と「天皇家の滅亡」です。
つまり信長は、日本国を統一した後は、
朝鮮半島でまた戦を繰り返し、
天皇より上に立とうとしてると言う事です。
ちなみに徳川家康は、そんな信長とは正反対で、
国主を敬い、日本の統一以外には頭にありません。
その事は、後の江戸幕府を見ればわかります。
明智光秀は徳川家康に、
京において、すべてを打ち明けます。
そして主君、織田信長を討つ決心をします。
そしてあの有名な台詞、
「敵は本能寺に有り!」
と家臣に告げ、織田信長を討ち果たします。
その時、信長の首を上げなかったのは、
光秀の主君に対する思いやりからだそうです。
その後、家康は三河へ帰り光秀への援軍を出そうとしましたが、
秀吉の、あまりの速さに遅れを取り
断念したそうです。
★明智家と徳川家の日光東照宮
明智家と徳川家の関係が、
いかに強かったかを表す証拠は幾つかあります。
たとえば、
・明智光秀の重臣の娘であるお福(春日局)を重要視した。
・旧明智家の家臣を多く取り立てた。
・南海坊天海の存在
等ですが、もっとも絆の強さを表す証拠が、
「日光東照宮」です。
日光東照宮には、
なぜか明智家の家紋が沢山あります。
なぜ、家康は謀反人である明智の家紋を、
自身を祭る所へ多用したのでしょうか。
きっと家康は、
自分を助けてくれた光秀への恩を忘れることなく
南海坊天海と成ってからも、
徳川幕府に貢献してくれた事を称えての事でしょう。
ちなみに、
南海坊天海と徳川家康は初対面の時、
人払いをし、
4時間も親しげに話をしていたと言う史実も残されています。
徳川家康は黒幕と言うよりは、
光秀に命を救われたと言った方が良いかもしれませんね。
勿論この事は、
本能寺の変431年目の真実 [ 明智憲三郎 ]に書かれていた、事を元にした
管理人の仮説ですが、
日光東照宮には、
「見ざる、言わざる、聞かざる」と言う、
三体のサルが飾られています。
これが意味するものはなんなのでしょうか。