マリーアントワネットはフランスの王妃でしたが、
非道なやり方が問題と成り、
フランス革命でギロチンにより処刑されました。
まあ、こんなことぐらいは、ほとんどの人たちが
ご存じかと思います。
マリーアントワネットに関しては、今でも多くの謎が残ってますが
今日は、そんなマリーアントワネットの子供たちと
彼女が歩んできた歴史についてです。
昔、「ラセーヌの星」というアニメが有ったのをご存じでしょうか。
「マリーを殺せ!!」
という物騒な言葉で始まるオープニングの歌が有りましたが、
マリーアントワネットとはどのような人だったのでしょうか。
その歴史から見てみたいと思います。
★マリーアントワネットの歴史
マリーアントワネットは、1755年11月2日、
神聖ローマ皇帝フランツ一世の、十一番目の姫としてウィーンで誕生しました。
ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
だそうです。
ハープやクラヴサンなどの演奏を得意としたそうで、
3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育されていて、
姉妹はとても仲が良かったようです。
ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、
結婚直前に急死したため、翌1768年マリア・カロリーナが
ナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことに成りました。
そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がったのです。
結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する事と成ります。
その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くように成ります。
マリーアントワネットとルイとの夫婦仲は、極めて良かったそうで、
鍵遊びをよく一緒にしていたほどです。
1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となったマリーアントワネットは、
朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することなど、
王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止及び緩和させます。
しかし宮廷内の人々は、アントワネットが無駄だと知りながらも
今まで大切にしてきた特権を奪う形に反発しました。
1789年7月14日、フランスで王政に対する民衆の不満が爆発し、
革命が勃発しました。
世にいう、フランス革命です。
それまでマリーアントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは
彼女を見捨てた恰好で国外に亡命してしまいます。
そこで彼女はフェルセンの力を借り、
フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世に助けを求めようと計画します。
計画は実行に移され、国王一家は庶民に化けてパリを脱出し、
アントワネットも家庭教師に化けたそうです。
しかし、国王一家は親国王派の国民からも見離されてしまう事と成ります。
そして、エリザベート王女の国王一家はタンプル塔に幽閉される事と成ります。
1793年1月、革命裁判は夫ルイ16世に死刑判決を下し、
ギロチンによる斬首刑としたそうです。
マリーアントワネットは8月2日にコンシェルジュリー監獄に移送され、
その後裁判が行われましたが、アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、
裁判は予想以上に難航。業を煮やした裁判所はジャック・ルネ・エベールやアナクサゴラス・ショーメット等に
ルイ17世の非公開尋問を行い「母親に性的行為を強要された」と
マリーアントワネットが息子に対して無理矢理に近親相姦を犯した旨を証言させそうです。
しかし、アントワネットは裁判の傍聴席にいた全ての女性に自身の無実を主張し、
大きな共感を呼んだそうです。
この辺は事実かどうかは定かでは有りませんが、
事実だとしたら切ないですね。
処刑の前日、遺書を書き終えた彼女は、朝食についての希望を部屋係から聞かれると
「何もいりません。全て終わりました」と述べ、白衣に白い帽子を身に着けたと言われています。
これが、マリーアントワネットの簡単な生涯と歴史です。
★マリーアントワネットの子供たち
マリーアントワネットは4人の子供たちがいました。
長女マリー・テレーズだけが成人し、
後年いとこにあたるアングレーム公ルイ・アントワーヌと
結婚しましたが、残念ながら子供には恵まれなかったそうです。
ただ、その他の子供たちについては残念ながら、
長男のルイ・ジョゼフは夭折。
次男のルイ・シャルル(ルイ17世)は
革命の後、タンプル塔に幽閉されて同じく夭折。
ただ、このルイ17世については、
タンプル塔で亡くなったのは替え玉で、
本物は行方不明になったとも言われています。
そして、次女のマリー・ソフィー・ベアトリス・・・
残念ながら、夭折と成りました。
長生きした長女マリーテレーズも、
かなり波乱万丈な人生だったそうです。
短期間の形式的にあ彼女の夫がフランス王に即位していますから、
彼女もまたフランス王妃となりましたが、
ウィーン郊外に移ってから、1851年に逝去されました。
★マリーアントワネットの子供たちとその歴史まとめ
マリーアントワネットが求めたものは何だったのでしょう。
人は、その行いにより必ず裁きをうけるものです。
たとえ現生でなくとも、必ずその報いは訪れます。
身分や家柄、そしてお金では無く「人」として生きていくことが重要だと言う事を、
この歴史が教えてくれていると思います。
現代でも、人としての行いを無視する人々は沢山います。
そういう人たちは是非、歴史を学んでほしいですね。
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