德川幕府を開き、戦国時代を終わらせた名将徳川家康。
彼は、多くの名言を残しています。
徳川家康の死から四百年以上も経った現代でも
その名言は人生の勝者となる教えが隠されています。
今日は、そんな徳川家康公の名言についてです。
徳川家康は、今の愛知県岡崎市で生まれました。
幼少名は竹千代で、
元服して松平元康⇒松平家康
そして徳川家康と名を改めます。
幼少の頃は、今川家と織田家の人質生活を繰り返し
今川義元が織田信長に討たれたのを期に、
信長と清州同盟を結びます。
ちなみにその時、今川義元から「元」の字を取っていた為、
名を「家康」と改めたのち、「徳川姓」を名乗るように成ります。
~徳川家康の名言とその意味~
では、徳川家康公の主な名言の意味を以下に記載します。
★人の一生は重き荷を負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず
徳川家康の名言の中で、広く知られているのがこれですね。
意味としては、人生というのは重い荷物を背負い、
長い道のりを一歩ずつゆっくりと歩くようなものだから、
無理に急いだりはせず、また思い通りにならないことが
当たり前だと思っていれば不平や不満も起こらない
という意味です。
徳川家康の人生を表す言葉ですね。
家康は、最初から天下を望んでいた訳では無く、
生き抜くために無理をせず、一歩ずつ歩んだ結果が
天下人と成ったわけです。
★勝つことばかり知りて 負くるを知らざれば 害その身に至る
これも有名ですね。
意味は、勝つことしか知らないでいると逆境になった時それを乗り超えることが出来ない。
だから負けるということも知っているほうが良いという意味です。
家康は、武田信玄が三河に進行した際
迎え撃ちますが、こっぴどくやられています。
もし信玄が、家康の首を取ろうと思っていたら
その後の徳川の繁栄は無かったでしょう。
ですがその時、信玄の頭には信長の首を取る事しか無かったので
岡崎城は攻められずに済みました。
その時の負け戦の自分を、肖像画に残し戒めにしたと言われてます。
★不自由を 常と思えば 不足なし
これは最初の、
「人の一生は重き荷を負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず」
とかぶりますが意味は、不自由な事が当たり前だと思っていれば、
なんの不満も出てこないと言う意味です。
贅沢な暮らしに慣れてしまうと、普通の生活が出来なくなります。
また、すべて満たされてしまうと人間は向上心を失います。
現代人にも当てはまる、名言と言えますね。
実際、家康は武を重んじ質素倹約だったと言われてます。
★心に望みおこらば 困窮し足る時を思い出すべし
これは、心に望みが生じたら苦しく困っていた時のことを思い出しなさい
と言う意味ですが、まさに家康がその人生の中で培った言葉ですね。
一時の欲望の為に、危険を犯し命を絶てば
辛く苦しい時を耐えてきた事も水の泡と成ります。
家康は信長の命令で、妻子を死に追いやりました。
その時、徳川の家臣は信長と一戦交えるべしと主張したそうですが、
長男の信康は、徳川家の繁栄の為なら喜んで死ぬと言ったそうです。
当時の戦力では、とうてい信長には勝てず
家康も相当悩んだと言われてます。
その時の苦しい経験が、後に戦国の世を終わらせる
原動力に成ったのだと思います。
★水よく舟を浮かべ、水よく舟をくつがえす
これは、
水は家臣、舟は主人で部下を公正に扱い愛情が深ければ家臣はよく主人を支えてくれるが、
扱いが不公正だと家臣は怒って波を立て(謀反を起こし)
主人を見捨てほうむってしまうものだ。
という意味です。
家康は、豊臣秀吉に「家康殿の宝は何か」と聞かれた際、
「我が宝は家臣なり」と答えたと言われています。
勿論これは、他の大名に自分を良く見せようと思う気持ちも有ったと
思いますが実際、家康は家臣をとても大事にしたと言われてます。
この辺は、
「人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵」
の名言を残した武田信玄から学んだのだと思います。
~最後に~
数多くの名言を残した徳川家康ですが、
実は家康の言葉では無く、
徳川光圀が「人のいましめ」と題して書いた文章だと言われています。
明治の初めに池田松之助という元旗本が
徳川幕府の栄光を懐かしみ家康を神格化して行くうちに
自分が家康になった気持ちでこの「人のいましめ」を模写し、
これを「神君御遺訓」として世間に流布させたそうです。
ですが、これらの名言の意味を読んで見ると、
徳川家康の人生そのものと言えるのではないでしょうか。